親孝行とは、傍目からみてどう映るかではなく、自分自身が、これは親が喜ぶであろう、親の意思(遺志)に沿ったことができたと実感できたときに、遂行できた、ということではないだろうか。
これまで、ここまで一生懸命育て、サポートしてくれた亡き母に、<親孝行>してあげれたという実感がなく、まさに、孝行したいときに親はなし,を、地でいくような人生であって、それが、時には空しく寂しくあり、どうしようもない思いを抱えることもあった。
人からは、医者として一生懸命働いて親御さんも喜んでおられるでしょう、とか、娘さんがいることで、親御さんも随分と楽しかったこともあるでしょう、などど<親孝行されましたね>という内容の言葉を頂いたことはあるが、やっぱり、実感はなし。
でも、ここにきて、やっと、母も喜ぶであろうと思うことが実行でき、非常に喜びと満足を噛みしめている。
看護学校の講師を引き受けていて、その講義後のアンケート結果を、教務の方がぜひみてほしいともってきてくださったことだった。評価の数字のみならず、たくさんの生徒さんから、講義のわかりやすさへの喜び、看護師として生きることへの勇気を得たことなどのコメントの書き込みがあり、とてもうれしかった。
母は非常に教育熱心で、次世代を育てることに、他人の子供にも愛情を注いでいたし、熱心で、特に女子教育への熱のいれようは半端ではなかった。その母の意志(遺志)を多少なりとも継げたことがうれしい。もちろん、今回の講師の依頼を受けたのも、開業時から看護学校の仕事に携わりたいと考えていたところに、ふってわいた話だった。
あると思うな、親と金(と健康)。
親孝行したときには、親はなし。
本当、先人の言葉を、噛みしめる日々である。