延命措置について語ろう

高齢・事故・病気による終末期。

 

いざ、心臓や呼吸器の動きが弱くなり、とまりかけた時に、<延命措置(処置)>をするかどうかは、家族の考えによって決まります。

 

もう、おそらく、意識が戻ることはないだろう、その人がその人らしい意志と行動をもって生きることはないだろうと思っても、<延命措置をしないで>というのは、家族にとって、とても決断しにくいものです。

 

でも、その家族の心を一番強く動かすのは、<その人が延命に関してどういう考えの持ち主だったか>ということです。

 

実母と、夫は、延命措置はしないでほしい、という考えの持ち主です。

私は、今はまだ、考えきれないでいます。

 

なぜなら、延命措置をしないでほしいと希望していた母を、末期がんで失う時に、医師として、延命措置をすれば生命維持はできる、まだ、母と別れたくないという思いがあり、<延命措置を希望しません>といいつつも、非常につらく悲しい決断をすることになったという思いを、今も抱えています。

 

まだ、中学生、高校生の息子たちにとっては、どうなんだろうか。不測の事態で、私が、もう、意識が戻らない、という状況になった時に、それでも、延命措置で、ただ、<存在してくれている、死んでない>というだけでも、彼らの心の支えとならないだろうか。社会的に、彼らのためだけに、延命措置をして、医療費をかけるようなことをしてもいいんだろうか。迷いに迷って、いまだ、決めきれていません。

 

でも、ひとつの救いの方法としては、延命措置は、一度してしまうと、家族がもうやめて、と思っても、生命維持装置(処置)をやめることは、医師に殺人の罪を着せることになり、不可能と思われてきました。

でも、これは、考え方が変わり、延命措置をしても、その人らしい人生、その人の生きる力が途絶えたということを認めることで、家族の同意のもと、延命措置を終了する、ということを受け入れる病院も増えてきています。

 

延命措置を聞かれた時に、一度、<今は決断できないので、延命措置はしてほしい。でも、家族や親族で考えが落ち着き、その人の生命、生きる力は、本来はもう、途絶えている、おそらく、本人は延命措置を希望していないと思えたときには、措置を終えることはできますか>と聞いてみて下さい。延命措置を、その人の生きる姿勢を考える時間、家族の心を問う時間、を得るために、という考え方のあることを知ってほしいと思います。